
1895年に台湾が日本の植民地になると、「大清帝国」から「大日本帝国」となり、台湾人は国籍が変ることになった。この時代の狭間において、台湾人は言語をはじめとして、日常生活や教育、経済体系など日本植民地の管轄下で近代化を経験した。物質上の変化だけでなく、精神面においても日常的な習慣や宗教・信仰などが根本的に変化し、とまどいも生じた。台湾総督府は種々の政策を行ったが、「内地延長主義」などは実質上、台湾が日本の内地の延長とは言いきれず、同化政策においても台湾側と日本側は異なる主張をしていた。台湾人は植民されているという事実を受け入れざるを得なかったのである。
1920年代、日本の大正デモクラシーは台湾のエリート層にも相当な衝撃を与え、蔡培火がこの時期の台湾を「台湾は帝国の台湾であると同時に、我等台湾人の台湾である」と主張している。台湾国内では、文学や政治運動などが盛んになり、日本側とも競い合っていた。台湾の作家はチャレンジ精神に富み、新進思潮を追求していた。共に台湾で暮らしていた日本人も台湾文学に新しい視点を提供していた。このエリアでは「考えてみる」をテーマにして、台日間の思潮の交流、思想の衝突や運動の競い合いなどの光景を見てみたい。

•林文哲家族 提供
暗闇の中での色とりどりの輝き / 弱者の抵抗、リアリズム的な記録 / 幻の共栄、転回する台湾
1895年6月17日、台湾総督府は台北で始政式を開催し、台湾人は日常生活から言語教育まで、日本側によって改めて近代化され、過去の伝統や親しんでいた物事とは決別した。台湾人は時代の狭間において、その変化を迎え、抵抗し、受け入れ、そして変らざるを得なかった。
1918年、アメリカ大統領ウィルソンが十四か条の平和原則を発表し、「民族自決」を唱えると、アジアを含む世界各地の民族も、これまでなかった新しい局面に直面した。この時期の台湾は「植民地近代化」の時期にあたり、西洋近代の新しい思潮が新青年を育てた。彼らは現実の社会で冷遇されたため「台湾人意識」が芽生えたのだった。自由民主主義、文学思潮下の日本知識人たちもまた、人道主義の志を持ち、帝国主義のもとで台日の共同創作をとおして接触し、時代の暗闇の中で色とりどりの輝きを放った。
本エリアでは「同文異族、生活の再構築」をテーマに、台湾人が時代を乗り越えていく物語を紹介する。「西洋の墨汁を一滴飲んで、世界へのドアを叩く」という言葉のように、台湾の知識人たちは「われらは開拓者であり、鈍い奴隷などではない」と自負し、植民されても自分なりの個性と姿勢を持っているべきだと主張した。彼らが如何にして、文学的素養の養成や思想の邁進によって統治下の暗闇を乗り越えたかを見てみよう。

林文哲家族提供
環境衛生のほか、彼は一切干渉しなかったが、衛生面においてはとても熱心だったし、毎日が同じことの繰り返しだった。彼の生活はまるで時計に刻まれているように正確で、定刻に既定の道路に出るのだ。そのおかげで彼が通る道の家々では、みな早めに自宅の前を清掃するようになったのだった。このように、私の住んでいた街の家々ではみな、朝早く道路を清掃することが日課となったのだ。
— 葉榮鐘「私の青少年生活」
乙未(1895)年、下関の料理店「春帆楼」の酒席において清国と日本は台湾の未来を決めた。感情面と日常生活の面においても台湾は大きな変化に直面し、言葉をはじめとして、服装や日常生活など全てが一変した。台湾総督府は台湾人の文化風俗を徹底的に変えようと、積極的に教育体制を改変し、台北の近郊に「芝山巌学堂」を設立し、統治期の教育を始めた。
衝突が絶えない日本統治初期において、台湾は少しずつ漢と和の境界線に近づき、同文異族と言われたが、実際には異なっていたのだ。旧暦かの時辰から新暦へ、泥の道路からアスファルトへなど生活の変化を始めとして、日本統治下による近代化の歩みとともに、台湾も「清潔」「整然」「礼儀正しい」「時間を守る」という新しい境地に向かいつつあった。

台湾歴史博物館提供
明治期から大正期にかけて、日本思潮と文学作品などの受容が、台湾の知識層たちが世界へ進出するステップの一つとなった。大正デモクラシーの時代には、知識が爆発的に広まり、宗主国の日本から植民地の台湾に至るまで、既成の秩序を打破し新しい社会を構築することが渇望されていた。台湾ではこういった思潮の中で台湾新文学の運動が起り、独特の光景を見せていた。帝国主義の色彩が濃い時代に、台湾のエリートたちがそのまっただ中で先頭に立ち、目を輝かせていた。
「上を目指せ!」それは1920年代の台湾の知識層たちの唯一の考えであった。植民地という厳しい環境において、作家たちは積極的に中央文壇を目指して、世界文学のドアを叩くための踏み台を作ろうとした。その中には、作家の龍瑛宗や、楊逵、呂赫若などがおり、また画家たちもそうであった。初めて日本の「帝展」に選ばれた陳澄波や「台展三少年」と呼ばれる陳進、林玉山、郭雪湖などといった顔ぶれは当時の台日間の文化の世界では相当な注目を浴びていた。
台湾の知識層は衝撃や挫折を経験したが、それでも乗り越えようとし、その中でそれぞれの突破口を見つけようとした。そして台湾人たちが生活していく上でのプライドを身につけたのだった。

臺北市立美術館提供
1914年12月20日、「台湾同化会」は台湾鉄道ホテルで成立大会を行った。日本の政治家板垣退助や田川大吉郎などが台湾を訪問した。1921年10月17日、西洋の近代思想の洗礼を受けた台湾のエリートたちが、台湾の文化的啓蒙を目的として「台湾文化協会」を設立した。このように、この時期は台湾が目覚めた時期でもあり、文化、教育、政治、社会などがテーマになって、知識層の社会的実践をとおして北から南まで台湾全体が活力で満ちていた。台湾人は鈍い奴隷などではなく、「台湾は帝国の台湾であると同時に、我等台湾人の台湾である」のだ。書物の発行や新聞社の成立をはじめとして、一般向けの講習会や講演会、夏期学校をとおして、台湾全島では「文化的啓蒙運動」が盛んに行われていた。台湾だけでなく、この時期は世界中で自我に目覚めた社会運動が起こり、「少数民族の自決」は「啓蒙的」なスローガンになり、文化運動の幕が明けた。この時期の文化的啓蒙の運動は、その後もずっと影響を残し、現在でも重要な文化的記憶となっているのだ。

林文哲家族提供

『フォルモサ』2号、1933年。黄得時寄贈。
この雑誌は1933(昭和8)年7月に東京で創刊されたもので、当時の台湾芸術研究会のメンバーによって発行された。そのメンバーは皆、台湾の留学生で、蘇維熊、王白淵、呉坤煌、巫永福などがいた。作風は多種多様で、郷土文学および社会主義思潮についての批評もあった。台湾の文芸を振興するためには芸術的な生活を追求するほかないと強調されている。合計3期発行されており、1934年に廃刊となった。 第二号は1933年12月の末に発行され、王白淵「上海を詠める」、呉坤煌「臺灣の郷土文學を論す」、劉捷「一九三三年の臺灣文學界」、張文環「みさを」などが収録されている。
第二號於1933年12月底發刊,內容包括王白淵〈上海を詠める〉、吳坤煌 〈臺灣の鄉土文學を論す〉、劉捷〈一九三三年の臺灣文學界〉、張文環〈みさを〉等。

謝春木『臺灣人は斯く觀る』、1944年。謝里法寄贈。
謝春木(1902〜1969)は本名、謝南光で、ペンネームは追風で彰化生まれである。1921年、日本東京高等師範文科に留学し、1922年に新文学の芽が出はじめた際には小説「彼女は何処へ」を発表した。台湾民報の記者を勤めたことがあり、台湾文化協会や台湾民衆党の活動にも参加していた。
この本は「臺灣人は斯く觀る」、「臺灣人の要求」、「日本主義の沒落」の三部構成になっており、1944年6月に台湾民報社から発行された。台湾民衆党の党員として、謝は系統的に民衆党の発展と思想の転換を説明し、日本の植民地統治を打倒し、民族の解放をするためには革命するしかないと述べ、また、中国の革命と同盟することで本当の勝利を勝ち取るべきだと主張している。

『臺灣民報』創刊号-26号合本,1923年。劉克全寄贈。
雑誌『臺灣青年』は1920年の初めに日本の東京にいた台湾留学生によって創刊されたもので、のちに『臺灣』と誌名変更され、1923(大正12)年に『臺灣民報』が発行され、1927年8月1日に発行元は台湾に移った。1930(昭和5)年3月に『臺灣新民報』に誌名変更し、当時の官報『臺灣日日新報』と二大勢力となって争っていた。
「台湾人のために声をあげる」新聞紙として、創刊の言葉においては「我々は今日の台湾社会において平等に欲している。生き残るためには民衆のための言論媒体を作らないと行けない。今は社会を教育し、大衆を呼び起こす時だ」とこの新聞の性格と目標が掲げられている。この系列の新聞は戦火のため各地に散在しており、黄天横が保存している1932年4月のもののほかに、2015年に国立台湾歴史博物館による依頼で、本館と六然居資料室との共同で1932年4月から1940年5月までのものを復刻し、12月に出版した。

呉新榮、『震瀛自傳』第一冊、1948年前後。呉新榮の家族寄贈。
呉新榮(1907〜1967)は字、史民で号、震瀛である。ペンネームは兆行と琑琅山房主人であり、台南生まれである。台湾総督府医学専門学校を卒業した後に、1925年に日本に渡って医学の勉強をした。主宰していた雑誌には『蒼海』『南瀛會誌』などがある。1928年に、社会主義思想を持つ東京台湾青年会と日本共産党が率いた台湾学術研究会に入会したため、投獄された。台湾に帰ってから台南の佳里で医師として開業したほか、創作も続け、文化・政治運動にも多く参加した。

小逸堂第二回同窓会記念写真、1942(昭和17)年1月22日。賴和文教基金会提供。
小逸堂とは、漢文学堂のことで、彰化南壇(今の南山寺)のそばに開設されていた。賴和(1894〜1943)の年譜によると、1903年、当時一〇歳だった彼はこの学堂に入り、漢文学者黄倬其(黄漢)の生徒となった。同期には詹作舟、陳呉傳などがいた。賴和は「小逸堂記」において、先生(黃倬其)の指導のおかげで、私達生徒は皆和気藹々で、知らないうちに溶け込んでいた」と述べている。ここで展示されているのは、小逸堂の第二回の同窓会の写真である。座っている人々の左から楊以專、王麗水、詹阿川(詹作舟)、陳呉傳、後列左から張參、石榮木、詹樁伯、黃文陶、魏金岳、賴和、石錫烈である。

洪棄生「寄鶴齋詩草乙未以後批晞集」手稿、1895〜1905。洪小如捐寄贈。
洪棄生(1866〜1928)は、本名攀桂(字月樵)で彰化生まれである。日本統治時代に洪繻に改名(字棄生)し、抵抗の意志を表明した。なかば隠居しており、漢文学を教え、詩と酒に心酔した。台湾総督府の命令を無視していた。
洪棄生は字が達筆で、ここで展示されているものは彼の直筆で、宣紙の糸綴じの冊子に書かれている。洪は生涯、無数の詩作を書いたが、この詩集は彼の代表作と言えるものだろう。作品には1895(清光緒21)年から1905(明治38)年までのものがあり、五言古体詩が多く、時代が反映されており、国家が滅びていく様子が描かれている。詩集の第一首は「臺灣土匪記事」であり、清朝の最後の無能さと滅亡、そして義士たちの切なさと犠牲を描いている。行間に憤りと悲痛さが溢れている。この手稿は本文学館の重要作品でもある。
プロレタリアを目指せ、大衆に入れ!
エリートたちと大衆連盟戦線の時代
1920年代中頃から1930年代初頭まで、文芸の大衆化の風潮が起こり、新しい文学思潮と社会主義が結合し、共産主義の追随者と台湾の知識層は再び連盟を結んだ。
しかし、文学観の相違から、台湾の文壇では論争が行われた。1937年の戦時下において、皇民奉公会が主催する大東亜文学会では「糞リアリズム」の議論が行われ、皇民文学の問題が取り上げられ、台日の作家たちの間でも論争が交わされた。帝国側の緊迫した戦線のまっただ中、作家たちの作品も言論統制を受けていた。一部の作家たちは民間生活や郷土風俗という題材に目を向け、『民俗台湾』はそのような作品の発表の場を提供した。戦時下の台湾の文壇では、台湾のエリートたちは郷土文学の調査に着手しはじめ、在台日本人の作家は耽美主義的な作品を書き続け、西川満『媽祖』はその代表的な例になっている。このエリアでは「街の力、文学の水脈」と「静かな島国、人々の表情」をテーマに、1930-1940年までの記録をまとめてみた。台日の作家たちがどのように作品をとおして文学論争を行い、台湾の人々の表情を書き込んだのかを見てみよう。
1920年代中頃から1940年代まで、製糖会社や退職した日本人官僚、日本企業、台湾人の地主階級および総督府の不正などに対して、台湾の底辺にいたプロレタリアたちはデモを行い、農工社会運動団体の台日農工組織が海を渡り結束して、資本主義の圧迫に抵抗した。
1943年、台湾文壇では「糞リアリズム」論争が行われており、西川満を始めとする『文芸台湾』では、台湾人作家のリアリズムに「糞」をつけて「糞リアリズム」と軽蔑して、家族の葛藤や陋習などにしか目を向けず、皇民意識が欠けていることを批判している。これに対して、楊逵などの作家たちが声を上げ、皇民文学派の西川満らの論敵となった。その背景には、長い間、台湾人作家が、日本人作家の外地文学論およびロマンチシズムや耽美派の作風に不満があったことと、文学をとおして戦争に協力するというやり方に極力抵抗していたことがあった。この文学論争をとおして、植民地の支配する側と支配される側という文学的立場の相違がはっきりと浮き彫りにされているのだ。

莊明正提供
いわゆる民間文学とは、先住民の感じ取った感情を詩に詠う時の想像力の統計であり、宇宙万物を思惟する際の一つの答えでもある。それと同時に大衆の思想や行動の無形の支配者でもあるのだ。
— 李献璋『台湾民間文学集』
日本統治初期においては、旧慣調査目的にして台湾民間の歌謡が収集されており、例えば『台湾慣習記事』(1901〜1907)や平澤丁東『台湾の歌謡と名著物語』、戦争時期では台日共編の『民俗台湾』がある。日本側は民間材料の整理をとおして、台湾人の生活の様子を把握しようとしていた。しかし一方で、台湾人作家が自分の土地と人々の生活に注目することで生まれた民間文学は、一般大衆の反響を呼んでおり、これは台湾人の民間文学が在台日本人の民間収集より優れていることの証明になり、1930年代の台湾文学の発展の道程でもあった。この時期に、新聞において郭秋生、黄石輝、賴和、荘垂勝らは民間文学の収集と創作の重要性を呼びかけていた。1936年になると、その集大成とも言える李献璋『台湾民間文学集』が出版され、台湾文学の発展に重要な道標を示した。

台湾歴史博物館提供

《第一線》,1935年。黃得時捐贈。
この雑誌は1935(昭和10)年1月に創刊され、一期しかない。『先發部隊』2号から『第一線』へと誌名変更し、台湾文芸協会から出版され、編集は廖漢臣であった。『先發部隊』の性格を継承し、新文学の形式を論じ、プロレタリア文学の提唱を訴えている。黄得時は巻頭の言葉「民間文学の認識」において、台湾は民間文学への関心と認識が欠けていると述べており、そのため『第一線』は「台灣民間故事特輯」を企画し、廖毓文、李獻璋、陳錦榮、蔡德音らによって台湾各地から収集した民間の物語と伝説15篇を収録している。この号には、さらに二篇の伝説と民謡についての評論も収録されている。

平澤丁東『臺灣の歌謠集と名著物語』、1917年。龍瑛宗寄贈。
平澤平七のペンネームは平澤丁東で、1900年に台湾に渡って、台湾総督府編集課に勤めていた。台湾の民俗を考察することをとおして民衆の言葉と生活を理解し、台湾を統治する際にはこれが重要な仕事であると主張している。 この本は最初の台湾民俗の歌謡の集大成であると論者は主張している。1917年に発表され、台北晃文館から出版された。台湾の歌謡、物語、歴史小説などが収録されている。その中で歌謡は「俗謡」と「童謡」に分類されており、全部で二〇〇あまりの歌が収録されている。この本に収録されている史料は多くが文字だけであり、曲がない。平澤丁東は歌謡と物語を収集する目的として、「文学は民衆の感情の記録であり、文学をとおして民衆の言葉と思想を理解することができる。統治するにあたって、現地の文学を理解することは重要である」と述べている。

『民俗臺灣』1卷2号、1941〜1942年。龍瑛宗寄贈。
この雑誌は1941(昭和16)年7月10日に創刊され、台北の東都書籍株式会社から出版された。日本人の版画家で作家の立石鉄臣や池田敏雄、金関丈夫などが中心人物であったほかに、台湾人の作家、例えば楊雲萍や黃鳳姿、黄得時らも参加していた。この雑誌は台湾の民俗と民俗学の専門誌で、皇民化運動および軍国主義の戦時下においては独特の色彩を呈していた。雑誌のテーマには、冠婚葬祭、節句祭典、占い、呪術、民間禁忌と生活信仰、生命礼儀、社会習慣、台湾語と諺・伝説、遊戯競技、民芸戯曲、民俗医療、民族文化、民俗学討論などがあった。3年7ヶ月で43号が発行され、台湾民間文学の重要な文献になった。

朱鋒「鴨母王」、手稿、1930年代。莊明正提供。
朱鋒(1910〜1974)の本名は莊松林で、ペンネームには尚未央、赤嵌樓客などがある。台南生まれである。台湾文化協会のメンバーであり、1930年代に社会運動に参加し、左翼雑誌の編集にも関与しており、その中には『反普特刊(反プロレタリア特集)』『赤道報』などがあった。『臺灣新文學』に作品が発表されており、その多くは社会主義運動家の心境をテーマにしたものである。1930年代後半、莊松林は民間文学の創作に没頭し、台南地区の民俗、伝説、文献などの史料をまとめた。 「鴨母王」は李獻章『臺灣民間文學集』に収録されており、莊は民間伝説を収集して本にまとめた。この本において、「鴨母王」という人物は従来の「匪徒」としての理解とは異なり、非漢族主義の清朝を倒し明朝を復興するものでもなく、庶民史という観点から世直し一揆を行う者として描写されている。台湾語の諺なども引用しており、それがローマ字表記で記されている。
1937年7月、中日戦争が勃発し、台湾総統府が全面的に皇民化運動を推進した。1943年、台湾文学奉公会が設立されると、皇民文学会議と文学集の出版に力が注がれた。中国にも日本帝国の勢力が拡大すると、「日支一家」が強調され、中国の古典文学の日本語訳にも着手されるようになったが、これも台湾人作家が迎合的な政策文学を避けるための手段の一つであった。そしてお茶の間で読まれるような通俗的な書物『風月報』や『南方』もまた、作家たちの発表の場の一つとなったのだった。
1945年8月15日、日本の天皇が敗戦宣言を発表したことによって、大東亜共栄圏の幻想も終わりを迎える。しかし、日本に次いで国民政府がやってきたことで、台湾はさらに新たな政権に「転回」された。1960年代になるまでは、台日間の交流は少なかったが、1964年6月に創刊された『笠』をとおして、台日は改めて交流をし始めた。台湾作家は翻訳をとおして戦後の世代に日本文学を紹介した。この時はさらに英米文学も『現代文学』グループを媒体に台湾で紹介されるようになり、台湾人はこのようなやり方で世界文学を受容するようになったのだった。
このエリアでは、「決戦期の想像の共同体」、「異郷が故郷になる」、「翻訳と転回」をテーマにして、時局の変遷を紹介しよう。

台湾歴史博物館提供
午後、将軍の実家に戻ると、居間の整理に着手した。まず、観音像を取り外して、明治天皇の遺影を取り付けた。次は普陀岩を取り外して日本国旗を飾った。仏法の対句を外して、天皇の「教育勅語」を貼りなおした。
— 呉新栄1938年5月29日『呉新栄日記』
1941年、大東亜戦争勃発以来、「文化翼賛」のスローガンのもとで、帝国主義の拡大は直接的に台湾社会と台湾の文壇に影響を与えており、作家たちは「皇民文学」を書かざるを得なくなった。こういった時局において、人々の生活にも大きな変化がもたらされた。皇民化運動を遂行する日本文学報国会や台湾文学奉公会は文壇の活動の舵を取っていた。楊逵が「大東亜何億の人々がみな、強制されるのではなく、自ら尽力しようとする日が来たらどれだけいいのだろう」と語っているように、台湾作家は是が非でも政策文学を完全に回避することはできなかったのだ。
このような時局において、政治と関係ない通俗的な文芸作品は、『風月報』や『南方』などの文芸欄をとおして掲載されていた。例えば呉漫沙の『韮の花』などはその例の一つであり、彼らの作品は読者に愛され、広く読まれていたが、東亞親善の代表の一つと見なされていたのだった。

台湾歴史博物館提供
1945年8月に終戦を迎え、10月に陳儀政府が台湾にやってきた。この時の台湾は言葉や生活習慣などがすでに中国とは非常に異なっており、様々な衝突が、いつ爆発するか分からない爆弾のように人々を恐怖に陥れた。日本語で創作することに慣れた作家たちは、こういった社会の雰囲気では作品を発表する場が限られていて、1946年3月に龍瑛宗が主催して創刊された『中華日報』の日本語文芸欄だけが、そのような作品を掲載する場を提供していた。掲載された作品も題材に限定されず、多種多様であった。しかし、同年の10月に廃刊されることで、このような発表の場もなくなったのだった。1947年二・二八事件が起こり、大勢のエリートたちが被害を受け、日本に避難したが、二度と帰郷できない人々、例えば王育徳、邱永漢などは日本で台湾独立運動を起こし、のちに財政・金融・経済といった事業に従事することになった。その後も戴国煇、張良澤らは台湾文学や歴史といった研究ジャンルを作り出したのだった。

台湾歴史博物館提供
台日間の交流は文学をとおして、政治的統制を乗り越えた。1987年、戒厳令が解除される前後に、日本統治を乗り越えた作家たちは静かに作品をとおして断絶した時代の隙間を補った。翻訳は一つのやり方であった。1964年6月、『笠』の創刊号からすでに、日本の詩や詩論、詩史が翻訳紹介された。たとえば、陳千武は北園克衛の作品を翻訳し、恒夫(陳千武のペンネーム)と錦連は野村四郎の作品を共訳しており、呉瀛濤の『日本現代詩史』などの著作もそうであった。1970年代に日本で教鞭をとった詩人である葉笛や日本古典文学の研究者である林文月なども、日本の重要な作品を多く翻訳した。
1980年代に入ると、日本の学者は台湾文学を研究しはじめ、彼らの研究の視点は日本統治時期の「外地内地」といったものとは異なり、比較文学の視点から「外国文学」として、台湾文学を世界各国の文学と同様に独特で主体性のある文学と見なし、分析を行った。2010年、国立台湾文学館は「台湾文学外国語翻訳センター」を成立し、翻訳者と翻訳作品を育成・補助し、その中でも『巨流河』や『台湾新文学史』の日本語訳は近年の重要な成果の一つである。

漂泊の叙事

『華麗島』創刊号、1939年。黄得時寄贈。
この雑誌はわずか一期だけが発行された。現代詩がメインで、「台灣詩人協会會」のメンバーである西川満、北原政吉が発行者兼編集を担当していた。この雑誌は西川満が文壇における人脈を台湾人の作家まで拡大したあとの初歩的な試みだった。現代詩のほかには随筆、小説などもある。投稿者には台湾人の作家たち、水蔭萍(楊熾昌)、王育霖、楊雲萍、黃得時、郭水潭、龍瑛宗らがいた。
同年、「臺灣詩人協會」が改組し、「臺灣文藝家協會」に拡大すると同時に機関誌『文藝臺灣』も発行し、「華麗島」の延長版だと見なされている。

『台灣文化』創刊号、1946年。秦賢次寄贈。
この雑誌は1946年9月に創刊され、1950年12月に廃刊になった。合計6巻27期があり、戦後初期において最も長く刊行されたものであった。『臺灣文化』は「臺灣文化共進會」の機関誌であり、発行者には游彌堅、許乃昌、王白淵、孫萬枝らがいた。編集長は蘇新から陳奇祿に交代したが、発刊の言葉には、「復興後、台湾の文学界は嵐の後の静けさのように……これは災難の後によくある現象であり、衰廃凋落と見なすのではなく、新生に備えるための準備と思ったらいいだろう」とある。創刊当初、総合性の文化雑誌として、文学創作、文芸批評、学術論著などがメインだったが、1949年に時局の変化のため、台湾文化研究の純学術雑誌となった。

邱永漢『濁水溪』、1955年。河原功寄贈。
邱永漢(1924〜2012)の本名は邱炳南で、台南生まれである。日本の東京大学経済学部卒業で、「臺灣文藝家協會」に参加し、西川満主宰の文芸雑誌『華麗島』『文藝臺灣』などで作品を発表した。日本語による詩作「鳳凰木」「廃港」は、戦後に陳千武によって中国語訳された。
この小説は、邱の自伝的作品として見なされており、1954年に発表され、同年『大衆文藝』から出版された。のちの1955年に日本現代社から出版された。リアリズム的な作風で、陳儀政府が台湾での種々の不始末を暴露し、二・二八事件は共産党によるものであるという国民政府の言い分を批判している。1950年代の白色テロの時代において、文学の形式をとおして、このように国民政府の不始末を批判することはきわめて珍しいことだった。

『笠』創刊号、1964年。李魁賢寄贈。f
この雑誌は1964年6月に創刊され、笠詩社の同人によって主宰されており、そのメンバーには呉瀛濤、詹冰、陳千武、林亨泰、錦連、趙天儀、薛柏谷、白萩、黃荷生、杜國清、古貝和王憲陽らがいた。現在まで発行され続けて五〇年あまりにもなるが、詩壇の全時期を見守ってきた。『笠』創刊当初において既に世界各国の詩作と詩論を翻訳し、日本現代詩の翻訳と紹介も行われた。錦連、陳千武、呉瀛濤なども参加していた。当時のモダニズム、シュルレアリスム、未来派などの思潮を引き起こし、台湾の詩学理論に新しい風を吹き込んだ。

『臺灣藝術』創刊号、1940年。龍瑛宗寄贈。
この雑誌は1940(昭和15)年3月に創刊され、1944年11月に廃刊となった。合計で55号が発行され、大衆の総合文化雑誌が目指された。同年には『文藝台灣』『台灣』などが発行されており、文壇の活動は大いに活発化した。編集兼発行者の黄宗葵は教授・学者・文芸・芸術・音楽などの文芸関係者を誘い、タイトルにある「総合」に合致するような文化的な雑誌を作った。許丙、辜振甫、乾元藥行、大日本製糖などの工商業界の資金援助を獲得し、毎月の出版が保証された。内容としては主に文学創作であり、1937年に新聞の漢文欄が廃止されて以来、『台灣藝術』は1941年8月号まで漢文欄があった。文学史の言語においてとても重要な作品、例えば呉漫沙「繁華夢」、李逸濤「蛮花記」などの口語文小説が掲載されている。

有馬敲著、錦連訳、手稿「北極記」。文学台湾雜誌社寄贈。
有馬敲(ありまたかし、1931〜)は詩人である。日本の京都でアジア文化交流センターを設立し、1999年に日本語・英語の海外交流詩誌『海陸風』を創刊した。詩作は中国語、英語、フランス語、ロシア語、スペイン語、韓国語、ギリシャ語など二〇カ国語以上に翻訳されている。錦連(1928〜2013)、詩人。笠詩社のメンバーで、詩の創作および詩の翻訳も行っていた。ここで展示されている詩作には、(一)と(二)があり、散文詩の形式を採っている。詩人は酷寒の北海道を舞台に、現実生活の窮屈さと居辛さ、そして太陽の光も差し込まずに、日々が淋しさと孤独に満ちていることを描いている。
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