コース概要
このコースは作家佐藤春夫が1920年夏に台湾を旅行、その後女性の幽霊伝説をもとに創作した小説『女誡扇綺譚』の舞台を巡るものです。100年近く前の作家の足跡をたどり、その台湾を見つめる佐藤の慧眼に思いをはせるコースです。作品は「赤崁城址」、「禿頭港的廃屋」、「戦慄」、「怪傑沈氏」、「女誡扇」、「エピローグ」の6章節で構成されています。作者がモデルになっている新聞記者の主人公は、台湾の友人と台南の安平一帯を探訪しているうちに、古城のような廃屋に足を踏み入れ、そこで階上から泉州語の女性の声を聞きます。その後外にいた老婆から、栄華を誇った沈家の没落の話を知ることになります。
モデルコース
第1スポット.:兌悅門
概要
国定古跡に指定されている兌悅門は、清朝道光15年(1835年)に台湾府城(現在の台南市街にあたる)が拡張された際に作られたもので、古い歴史があります。道光12年(1832年)張丙が清朝に反旗を翻し、人々を不安に陥れます。事件平定後、城を強固にして人心を安定させるために、砲台が建設されました。道光15年(1835年)台湾府城の外城が増築され、小西門から大西門、小北門までは外月城と呼ばれました。そしてそこに作られた三つの門、小西、大西、小北は、それぞれ奠坤門、兌悅門、拱乾門と命名されます。兌悅門は大西門の外城に当たり、伝統的な工法で、赤煉瓦を積んで作られています。土台の四方は花崗岩、城垣は硓𥑮石(珊瑚礁でできた石)、中間部分は土で塗り固められています。城門内壁と城垣に硓𥑮石が使われていることから、「硓𥑮石城」とも呼ばれ、また「甕城」という別名もあります。門内の通りは「硓𥑮石街」と呼ばれています。
「兌悅門」の石額は当時のもので、「兌」とは八卦の西方、「悦」は喜びを表し、「兌悅」とは「西に開かれた繁栄の門」という空間的な方角、吉祥を表す文化的な意義も込められています。府城にあった外城の門、大東門の東郭門、小西門の奠坤門、小北門の拱乾門は全て現存していないため、現在残っているのは兌悅門の城垣の一部のみです。城垣は湾曲し、弓のような形をしているため、そこを通る老古石街はまっすぐに伸びた矢のようです。今にも発射されそうな「城が弓で、路が矢」という風水的位置関係は、西の海からくる海賊を威圧しているかのようですが、一方で「矢」が台江を隔てて安平に向かっているため、安平の人々は、邪気を静めることを目的として、安平天后宮の裏手には矢の力をせき止める二つの石像を設置しました。これは民間の言い伝えではありますが、西に台江、安平を望む昔日の府城の地理景観を物語るもので、台江が陸地になった今では、歴史の変遷を風水を通じて面白く伝える民間伝承となっています。
第2スポット.:硓𥑮石街
概要
金安宮は創建以来数度の修復を経ています。嘉慶20年(1817年)、同治元年(1862年)、大正3年(1914年)、民国37年(1948年)、同47年(1958年)、全て参拝者の寄附によって行われました。民国76年(1987年)には火災で焼失しますが、翌年には地元の人々の力によって再建工事が始まり、12年後の民国89年(2000年)に完成、現在に至ります。硓𥑮石街、媽祖楼街や付近の古い町並みは、清朝から日本時代に至るまで賑わっていましたが、海岸線が西に移動するに従い、街の構造も変化、現在は住宅地、古い路地が残っています。近年は古民家のリノベーションが活発となり、民国102年(2013年)には、街区改造計画と台南市政府の歴史街区活性化補助事業によって、再生の機運が高まりました。西側には響響、禾稲製作所、東側には能盛興工廠、良好なリノベーションの事例が集まり、また慕紅豆、烹書、猫門珈琲、Fat Cat Deli等、祭祀と近隣の生活を中心に栄えた信義街は、「路地そのものがリビング」という新たな生活空間に生まれ変わっています。
第3スポット.:新港墘港
概要
新港墘港は、かつて五條港の北側の水路状の港で、徳慶渓下流の支流、硓𥑮石港とも呼ばれました。清朝道光年間、台江には大きな変化が起こります。鎮渡頭(接官亭石坊前)に土砂が堆積、下流にある新港墘港が他の水路に代わって、その硓𥑮石渡口(民族路三段と文賢路交差点)が貿易通商の玄関口となりました。船の往来は絶えず、商人や旅人が頻繁に行き交う活気ある場所だったことから、周辺の硓𥑮石街や媽祖樓街といった地域も大いに栄えました。
第4スポット:廠仔
概要
日本統治期の台南第二高等女学校の国語(日本語)教師・新垣宏一は、『女誡扇綺譚』に登場する「廃屋」について調査、それが「廠仔」と呼ばれる造船所の遺構であることを指摘します。近年には日本の研究者・河野龍也氏がこの説を裏付ける調査を行い、「廠仔」の建物2棟と家廟(祖先祠)が民族路三段176巷に存在していたことが確認されました(現在は解体済み)。硓𥑮石街や媽祖楼街一帯にあった二つの造船所は、一つは清朝の官営「台澎軍工廠」(略称は台湾廠、台廠、軍工道廠、軍工廠、大廠、北廠等)で主に台湾、澎湖の軍船を修造、もう一つは民間経営の「廠仔」で、清の乾隆年間(18世紀)に福建省泉州府晋江県から渡来した陳氏一族によって、硓𥑮石渡口に創設されたものです。
「廠仔」の創設者は陳朝和、その後5代目の陳友義(ちんゆうぎ)の時代に最盛期を迎えました。清の道光12年(1832年)の張丙の乱平定に功績があったため、功五品を賜りました。廠仔は現在の台南市中西区・民族路三段148巷と176巷の間にあり、当時は「廠仔」、「廠仔内」のほか、「南埕廠」「小北廠」などとも呼ばれていました。清の嘉慶24年(1819年)の「普済殿重興碑記」にも、「南北小廠が18大元を寄進した」と記録されています。「南北小廠」は清朝時代に府城台南にあった二つの民間造船所で、「北小廠」は陳家の廠仔、「南小廠」は現在の府前里にあった呉家の造船所を指します。廠仔には防衛用に三つの銃楼(見張り櫓)があり、一つは入口に、一つは母屋の裏に、もう一つは新港墘港沿いにありました。その広大な敷地と構造から、当時の繁栄ぶりが偲ばれます。
現在建物自体は残っていませんが、「小北廠金勝宮」という廟がその名残を伝えています。この廟は民国53(1964年)創建、武安尊王の張巡・許遠・雷万春・南霽雲などを祀っています。当初は「鎮尊壇」と呼ばれていましたが、民国73年(1984年)国安街へ移転した際に「小北廠尊王壇」と改称、、さらに民国84年(1995年)に再び現在地にある南向きの民家に移転、改めて「小北廠金勝宮」と改称されました。民国102年(2013年)には信者の企業金華工業有限公司が土地を寄進、さらに信徒たちが再建のために資金を集めて、民国106年(2017年)起工、翌年4月1日に落成しました。
第5スポット:仏頭港
概要
景福祠の周囲にある普済街や廟前の路地は、清代の古い区画が今も残されています。景福祠前を南北に延びる路地は、かつては杉行街、人和街と呼ばれていましたが、現在は普済街の水仙宮から民族路までの区間に当たります。大陸福建との間を往来する商船は杉の木をバラストとして利用していたため、港では杉の木の交易が行われるようになります。景福祠北側の福寿街は、現在の普済街、民族路から普済殿の区間に当たります。かつて多くの棺桶店が立ち並んでいたことからその名がつけられ、また板店街とも呼ばれていました。福建から輸入されていた杉材が、この地で大量に扱われており、それが棺桶作りに最適だったからです。仏頭港の発展に伴い形成された街道、産業が当地の大きな特色となりました。
第6スポット:酔仙閣
概要
醉仙閣は、永楽町3₋11、3₋12、現在の台南市中西区・宮後街19号(増築部分、現存)、20号(本店、改築)にあった高級料亭で、日本統治時代には台南を代表する社交場の一つでした。その歴史は1913年にさかのぼります。もともと「本町三丁目(現在の竹仔街)」にあった醉仙樓が、宮後街にあった「坐花樓」を買い取り、支店として開業したのが始まりです。同年年末には後に「寶美樓」の経営者となる蕭宗琳が友人らと開いた西薈芳との競争のため、醉仙樓は隣の広東雑貨商「太興隆」(永楽町3₋11、現在の宮後街19号)の2階部分を借り増しして拡張を図り、1918年(大正7年)に太興隆が倒産すると、1階も支店として使用するようになります。
その後創業者・唐大漢が亡くなると、蕭福金によって本店、支店とも売りに出されますが、本店は経営者が数人代わっても経営が上向くことはなく、最後には閉業、郵便局前の松金料理店に譲渡され、「松金旅館」として再出発しました。一方、宮後街の支店は1919年に「醉仙閣」として独立・再開業し、1921年10月には高得・高金溪親子に譲渡されました。1929年、台南警察署より設備の老朽化を理由に改善命令が下り、翌年には一時的に休業し、明治町(現在の成功路285巷3号)に移転、新たに料亭「広陞楼」として営業を続けましたが、建物が木造で宴会客を支えきれず、床の崩落が懸念されたため、1932年(昭和7年)に再び西門町4丁目79番地へ移転しました(現在の西門中正路交差点南東側)。
その後、1939年ごろに営業を終了。黄長氏が買い取り、「愛明樓」として再び料亭業を営んだのち、1944年には「台南州商工経済会」が入居。戦後は「台南市商会」となりました。現在その跡地には「寶島鐘錶行(宝島時計店)」が建っていますが、建物の一部は同店の広告看板に隠されています。2012年、醉仙閣の創業者・高得の五代目の子孫である呉坤霖氏がその歴史に触れ、2015年に洋菓子店として「醉仙閣」を復活。現在、台南市東区の裕豐街242巷5号に店舗を構え、新たな歴史を刻んでいます。